(株)iCAP三重COARA 代表/水谷美保 職務履歴
1992年
大分県国際交流室
1993~2000年
地域草の根電子通信ネットワークの先駆けであった「New COARA/パソコン通信ネットワーク(後に株式会社COARAとなり、現在は株式会社QTMedia)」にて、事務局運営に携わる。
1994年、日本でインターネットの一般利用が解禁される。
New COARAは、地域初のインターネット・プロバイダーとなり、まさにインターネット黎明期を駆け巡ることとなる。
インターネット利用者の急激な増加と、Windows95発売もあり、一気にNew COARAへの加入者(ネットユーザ)が増え、事務局も拡大。
当時は、電話回線とモデムのPPP接続によるインターネット接続で、通信速度も非常に遅かった。
パソコンを買ったばかりのPC初心者のお客様からの電話に、自らもインターネット事業開拓の渦中にあるスタッフが、手動でネット接続の設定をサポートする、とにかく苦難に満ちたサポート対応に明け暮れていた。
隣接する、ハイパーネットワーク研究所の研究員の方に常に助けて頂きながら、歩んだ日々だった。
知られていないが、日本のインターネットが、今や当たり前のようにどこでも繋がり、どこでも高速で使えるに至るには、New COARA とハイパーネットワーク社会研究所によって、国や企業へ「高速インターネットの必要性」を唱え続けた技術開拓・布石が大きく寄与している。
まさにその現場を目の当たりにしてきた。
当時のNew COARAには、創設者であり先鋭的主導者であった尾野徹氏による「実名主義の活発なネット ユーザー・コミュニティ」が生まれていた。
先進的なユーザーのコミュニティが存在することで、新しい技術の社会実験へ挑戦できる土壌が大分に築かれていた。
尾野氏の、New COARAの先進的なネットユーザーの声と共に、国や通信大手企業、学術機関へ「高速ネットワーク社会実現」への熱烈な提唱により、
1996年、大分県にて国と企業による「NTTマルチメディア社会実験」が行われ、通信事業の変革へ促した。
高速光網と低速網との共有で、インターネット技術を地域に展開する社会実験であり、行政・企業・教育・医療・市民参加の「利用者が」主導する社会実験だった。
この実験で、日本初のネット放送局型スタジオ、企業・行政・学術機関が共存する研究所、インターネット事業社、さらにネットユーザーが集まるネットカフェ的な交流スペースを備えた、【ハイパーステーション】が生まれた。
ハイパーステーションでは、WEBコンテンツ、ストリーミング放送による動画コンテンツが生み出され、デジタル・コンテンツ創出の先駆けとなった。
私達スタッフは、デジタルカメラを持ち歩き、地域を取材して記事ページを作り続け、地域サイトとしてのコンテンツを膨らませることが業務となっていった。
スタジオでは、地元ラジオ放送とネットストリーミングの放映にスタッフ自ら出演。
日本初のネットショップを立ち上がった際には、ネット販売の難しさを学び、高速インターネットが新しい社会文化を生み出すことを体感していた。
なお、この社会実験からOCNが誕生する。
時代は一気に、インターネットの高速化が推し進められてゆく。
この黎明期に最も刺激を受けたのは、定期的に大分県で開催される「ハイパーネットワーク別府湾会議」 (主催:公益財団法人ハイパーネットワーク社会研究所)の国際会議や国際フォーラムだった。
その開催に携わる中で、日本のインターネット界を推し進めていった、時代の先駆者であり頭脳集団である方々の声と行動を、身近に見聴きしながら、自らも初期ネットユーザとして新しい試みに挑戦させて頂き、インターネット幕開けの時代に身を置いた。
このような最先端技術の国際会議は、「リゾート&リサーチ」のコンセプトのもと、大分の湯布院や別府湾の景観を眺めながら、昼間は背広姿で熱い議論をし、夜は地元の美味しいもので参加者をもてなし、浴衣姿で夜中まで酒瓶もってお酒を交わながら論じ合う。
そこに、伊藤 穰一氏や、楽天市場の三木谷 浩史氏や、押井守氏(攻殻機動隊など日本のアニメーション監督)や、ハリウッドの映画ディレクターが座っていて、議論や盃を交わしている。
その、強烈な遊び心にも、デジタル時代の破天荒な面白さを感じずにいられなかった。
その別府湾会議で、ユーザーの「ネットをジャブジャブ使えるようにならないと変化は起こらない。」という発言に、議場が沸いたことを忘れられない。
また、アメリカ、シンガポール、マレーシア、韓国、などのIT最先端の視察にも同行した。
当時のニューヨークで、SOHO(Small Office Home Office)の働き方でIT事業を起こすベンチャー企業群を視察。
若い女性達がITを活用し、場所や時間にとらわれない新しい働き方の可能性を強く感じ、私自身の現活動の礎ともなった。
もうひとつ。
米国に視察で訪れた先での、素晴らしい経験。
1998年、自動車の無人自動運転技術を研究・実現化されていた、金出武雄先生のカーネギーメロン大学ロボティクス研究所を訪れたことである。
複数の角度から多数設置されたカメラで撮影した動画映像データを、3次元的に仮想化することによって、カメラで捕らえていなかった視点からの映像を生成する技術を研究されていた。
この技術による社会実験が 1999~2002年に大分県にて行われた「仮想化現実技術による自由視点3次元映像スタジアム通信の実証実験/3次元立体映像実正実験」である。
カメラで撮影していない角度からの映像をコンピューターが作り出し、視聴者が自由な視点からその場面を見ることができる。
2002年に大分でワールドカップが開催されることを念頭に、サッカースタジアム程の大規模空間で、現実空間を多数のビデオカメラで撮影し、映像を統合して仮想化現実空間を構成し、通信を経て自由な視点から再生する、ことを目標とした研究だった。
金出先生のロボティクス研究所でテーブルを囲み、ホワイトボードに研究スキームを描きながら、「日本とは違って、アメリカは、夢物語ような研究に、夢を託して研究費用をつける」と語られた、金出武雄先生の言葉が忘れられない。
急成長と共に、New COARAが株式会社化。
1998年、天神支店(福岡市)開設にあたり、福岡事務所へ単身赴任することとなった。
西日本新聞社メディア部に間借りしてスタートした、株式会社COARA天神支店。
インターネット事業の拡大でスタッフの人員が増え、私が結婚・出産で天神を離れる時には、新聞社ビルの大フロアーに、SEやデザイナーがズラリと並んで働くオフィスを構えるIT企業に発展していた。
当時、天神コアラの初期スタッフとして共に机を並べた、故・テレニン晃子さんは、自身の闘病記と娘へのメッセージを綴った『ゆりちかへ ママからの伝言』を出版。書籍がドラマ化され、多くの反響を得た。
晃子さんが最後に送ってくれたメールには、
「できるだけ長く生きたい。娘と長くいたい。」
と書かれていた。
その短い文面に込められた想いが、私の生き方に強い志を与えてくれた。
2000年に結婚。出産。
生活拠点が、福岡から三重県へ。
2001年~
株式会社iCAP三重COARA 起業
三重県ネットビジネス支援事業のご支援を得て、事業をスタート。
当初、三重県北勢部で活動する女性達を取材し、映像コンテンツを三重テレビ放送局へ提供し続けた。
この時の繋がりが、桑名女性ネットワーク(任意団体)の誕生につながる。
2年間、夫の転勤でオーストラリアに滞在。
オーストラリアに滞在中も、テレワークで事業を継続。
大自然の中で、コミュニケーション豊かであり、お互い支えあうことが日常・自然である、オーストラリアのコミュニティ文化・事業に感銘を受け、「小さなコミュニティ単位のつながりをたくさん持てることが人や町を成長させる」ことを学び、帰国後に桑名女性ネットワークの設立に至る。
現在も、WEB制作、映像制作、ネットショップ運営、DTPのデザイン事業。
女性の感性を活かした新商品・新サービス開発サポート。
セミナー・講習会・イベント開催。
を事業として継続。業務は、大半がテレワークで行われている。
2013-2014年 桑名市 子ども・子育て会議委員
2019-2021年 桑名市 行政改革推進委員
2020年「女性のためのシェア・スペース&オフィス」開設 。
会 社 沿 革
2003年
株式会社iCAP三重COARA設立
2011年
桑名女性ネットワーク設立
2020年3月
シングルマザー専用アパートサポート
http://les-liens.co.jp/
女性のためのシェア・オフィス運営スタート
http://icreatework.net
2020年6月
事務所移転